自然の恵みから生まれた真珠や宝石は、人々の歴史の中で喜びや悲しみを共にしました。
さまざまなテーマでその関わりを掘り下げてみました。
ART&pearls
ARTは絵画や芸術だけでなく、地理や歴史、文学も含まれます。
pearlを通してARTを語るシリーズ、今回は古代日本への旅です。
いにしえをたどる
【はじめに】
日本はいにしえの、ある時代からすっぽりとアクセサリーが消えてしまいました。
飛鳥時代の前までは、豪族たちが権力の証として勾玉などを着けていたのは遺跡から明らかです。
飛鳥時代の頃から段々と古墳も造られないこともあり、そして飛鳥時代後半には全くと言っていいほどネックレス等を着用した跡も記録もなくなります。
その後にお見えするのは明治維新後の時の政財界の妻などが欧米のようなジュエリーを身につけるようになった時。
約1000年という長い空白期間。
なぜなのでしょう。歴史もあり文化を持つ国々では権力の象徴として、装飾品は自分の表す大事な役割がありました。その装飾品を長いこと必要としなかった日本は世界でも珍しい国だと言われています。
不思議なので、調べてみようと思いました。
①飛鳥時代1
②飛鳥時代2
③飛鳥と奈良時代の染色
④平安時代
に分けてそれぞれの時代背景とアクセサリー事情を探ってみました。
そこには、国づくりに情熱を傾けた古代の人々と、外国の文化を捉えて昇華していく姿が見えました。
目的:歴史をたどることで、なぜアクセサリーは消えてしまったのか、を探る
なぞ:日本はには昔から真珠の産地がある。使われていなかったのか。
仮説:日本独自の文化がそれを必要としなくなった。時代背景と精神性が関係がありそう。時の政治との関係も背景のひとつ。
パールでたどる世界史、日本編 飛鳥①
それでは、まずは飛鳥からスタートします。
日本史の復習になってしまいますが、しばらくお付き合いお願いします。
ここは「大倭(やまと)」、
西暦で600年頃、後に飛鳥と呼ばれた時代。
今から、1400年も前の奈良でのできごとです。
出典tabica
そのころ、大王(おおきみ、後の天皇)は、遠く今の中国の宋に使いを出して
周辺諸国を意識したり、同時に力のある豪族同士が権勢をふるっておりました。
でも、そもそも手漕ぎの船で朝鮮半島との往来が始まったのはそれよりもかなり前のこと、
弥生時代には何度も渡っています。
「この海のずっと向こうにはずいぶん立派な都の大国があるそうだ」と、大倭の人々は話していたことでしょう。
当時朝鮮半島は、陸続きの宋からの影響を多分に受けていたのでした。
仏教伝来で変わる世の中
欽明天皇の538年ごろには、半島から仏教の教えと仏像が到来。大王はそれを拝み僧の話を聞く機会ができました。
人の形をしている仏像は、これまでの神とはちがって、目の前に厳かな形で存在していました。
仏教は建物や文字と共に、少しずつ大倭(ヤマト)に浸透していくのでした。
海石榴市つばいち(奈良 桜井市)壁画 仏教伝来図
大和川は渡来人を飛鳥まで運ぶ重要な川でした
さて、そんな中、豪族の勢力が強まるにつれて求心力のある有力豪族である連(むらじ)の「物部氏」と、臣(おみ)の「蘇我氏」は権力抗争のためお互い反目していたのでした。
連と臣は立場が違います。長くなるので割愛ですが、大王の周りで警備、祭祀等を担当する職人集団が連。
外交や外戚関係が臣という感じでしょうか。
さて、590年頃に、ある事件が起こりました。
2大勢力の内乱と推古天皇
物部氏と曽我氏 ⇨ 神道 VS 仏教
元々、大王の手足となり祭祀、警備や軍事として近くで仕えて「やおよろずの神」を信仰すべきと主張する「物部氏」。
一方、大王との外戚関係で大臣(おおおみ)の位であり、半島からの移住者、渡来人と交流もあり「仏教」を人々に広げたいという「蘇我氏」。
両者でとうとう争いが勃発してしまい、蘇我馬子(そがのうまこ)が物部守屋(もののべもりや)を破り勝ちました。
(丁未の乱 ていびのらん)
蘇我氏一族は、住んでいた場所が今の奈良県の橿原市あたり(かしはら市)。
その近くには半島からの移住者が多く住み付き合いがあったのだそう。
蘇我氏は百済との関係も深かったともされています。
その背景から半島経由の中国(当時は隋)が何事にも進んでいることを情報として知るにつけ
先を読むことの出来た馬子はきっと考えたにちがいないのです。
「隋はずいぶん良い国のようだ。ぜひともそこの国に行ってみたい。」
「でも、このままではだめだ」
「大陸と対等につきあえる仏教を知る必要があるな、もっと勉強をしなくては」と。
物部氏との争いに勝った蘇我馬子は、周りとの調和をはかりつつ、外交にも目を向けます。
自分を優位に進めたいこともあって今回は女性の大王の擁立をして事を進めようとしました。
ここに歴史上初めての女性天皇「推古天皇」が即位しました。
(その経緯については諸説あります)
推古天皇は、馬子の思惑と違って聡明な女性だったと言われています。
傀儡とは異なり自ら先を見通せる力があったのでしょう。
即位すると、国づくりを始めます。
やりてで物知りの馬子は警戒すべきでしょうが、その存在は必要です。
頭脳明晰な甥の聖徳太子を摂政にして推古天皇、蘇我馬子の三者協力体制で、天皇中心の中央集権化、律令政治を目指すのでした。
馬子は日本最古の仏教寺院の飛鳥寺を建て、聖徳太子は、父の用明天皇のために、法隆寺を建てます。
このように、600年ごろ天皇中心に国をまとめていこうとする最初の動きがありました。
日出ずるところの天子
聖徳太子は遣隋使を送ります。有名な隋の皇帝に出した手紙はこちら。
「日出ずるところの天子、書を、日没するところの天子にいたす。つつがなきや。」
「生意気だ」と皇帝はお怒りだったとか。
でも、太子は、対等でありたいという気持ちから強気で臨みました。
おかげで冊封(主従関係)にならなくて済み、正解でしたね。
飛鳥文化の特徴の仏教色濃く、又、律令制(ルール)づくりも着々と進めていきます。
しかし、志半ばで聖徳太子も馬子も、皆亡くなると再び蘇我氏の横暴さが世の中の混乱へと招きます。
飛鳥時代のアクセサリー
古墳時代の装飾品
実は、この前の時代(3世紀〜6世紀ごろ)の古墳時代には、遺跡や古墳からネックレスやイヤリングなどの装飾品がたくさん見つかっているのです。
権力の象徴ですね。たくさん持てることが力。
青銅でできた冠は金メッキが施されました。古墳時代の技術は高く、今とかわりません。
玉川遺跡(縄文時代) 藤の木古墳(奈良・古墳時代)レプリカ
飛鳥時代の装飾品
ところが、仏教が伝わってきたころを境に少なくなっていきます。
そして、聖徳太子が発令した「冠位十二階」という、身分を色別の布製の冠を身につけることで、
さらにアクセサリーは着けなくなります。
では真珠はどうしたのでしょうか。
日本には、当時すでにあこや真珠は鹿児島や長崎で採れていました。
3世紀の弥生時代の卑弥呼やそのあとの壱与は、
当時の中国の魏から真珠を下賜されたり、又朝貢品としたり、
というように真珠と関係があります。(魏志倭人伝より)
卑弥呼(安田靭彦 画)
そのあとの古墳時代には、真珠をネックレスに通したものや、一緒に埋葬されたかのように出てきます。
大坊古墳(熊本)
水晶、瑪瑙、真珠等
人間はもともときれいな物が好きです。
特に真珠が貝から出てきたらきっと大事にするでしょう?
ですが、採れていたはずなのに、真珠は飛鳥時代には形として登場しないのです。
もっとも、平安時代になると文字もかなり発達しますが、
このころはまだ一部の人のものでした。
なので資料としては見当たらない。
一つ、考えられることでは、仏教のでも七宝には真珠も含まれることもあり、
実際、飛鳥寺の塔の跡からは真珠がが複数見つかったとのこと、
この画像はかなり拡大されています。
実際はたった2ミリです。
飛鳥寺の真珠
仏教の広がりとともに、
「荘厳具」(しょうごんぐ)という
厳かなものに使われた可能性もあります。
アクセサリーが消えた理由の①はここまで。
第2の内乱へと続きます
次は、権力を持ったその蘇我氏を討つ第二の革命と、中大兄皇子の時代〜天皇を中心に国づくりが進む、
激動の時代へと続いていきます。
そして、飛鳥時代は力強くリーダーシップを取る魅力的な女性が何人も登場します。
平塚らいてふの
「原始女性は太陽であった」がふと浮かんできます。
国づくりの中、アクセサリーや真珠はどうなっていくのでしょうか。
②に続きます。
関連記事
②パールでたどる世界史【日本偏、飛鳥時代2】
パールでたどる日本史 飛鳥編2
③パールでたどる世界史【日本偏、飛鳥〜奈良時代】