自然の恵みから生まれた真珠や宝石は、人々の歴史の中で喜びや悲しみを共にしました。
さまざまなテーマでその関わりを掘り下げてみました。
ART&pearls
マニエリスム様式のルネサンス肖像画から真珠をたどる旅
ART
ARTは絵画や芸術だけでなく、地理や歴史、文学も含まれます。
pearlを通してartを語るシリーズ、フィレンツェへの旅です。
ART&pearls
宮廷画家ブロンズィーノの描くメディチ家の大公夫人の肖像画の旅も最終回。
16世紀のスペインとパールの事情は③でお伝えしたとおり。
https://veronic-jewels.com/jewelry-history/3934/
あくまでも仮定ですが、エレオノーラの真珠はベネズエラ産では?と思っています。
その後のエレオノーラとコジモ1世
エレオノーラの実力
ところで、この後のエレオノーラは40歳でなくなるまで11人の子宝に恵まれたのはこのシリーズ①でお伝えしたとおり。メディチ家に安泰をもたらしました。
https://veronic-jewels.com/jewelry-history/3902/
最初は “ スペイン人 ” として人気が薄かったエレオノーラも、次第に影響力を持ちます。
孤独で人をあまり信用しないコジモですが、
聡明な彼女に寄せる信頼は大変なもので、摂政として完全に国を委任されました。
コジモに相当の影響力があったと言われています。
為政者は孤独です。でも奥さまを信頼できて政治の相談ができるのは幸せ。
政治の口出しする妻だと国が傾くと言われますが、そうでなかったのはコジモの存在感と、エレオノーラの政治能力が有無を言わさぬものだったのでしょう。
エレオノーラは敬虔なカトリック教徒で、いくつもの教会を設立しました。
農業と商業にも興味があり、メディチ家の広大な領土を有効活用して収入を増やしました。
メディチ家に相応しく芸術にも理解があり、夫婦ともにヴァザーリ、ブロンズィーノ等著名な画家たちのパトロンにもなっていました。
フィレンツェの再興、今のフィレンツェの原形
コジモは体調のすぐれないエレオノーラのからだを気遣って、パラッツォ・ピッティを購入し宮殿を大拡張した上で拠点を移しています。
画像引用元 Wikipedia ピッティ宮殿
近くに流れるアルノ川は故郷スペイン、サラマンカのトルメス川を思い出すこともあったのではないかなと想像します。
内装はエレオノーラの好みに合わせで豪華そのもの。
画像引用元 (ア)
コジモ1世のエレオノーラのため作らせた、今では世界遺産のボーボリ庭園もあります。
噴水や洞窟もある、それはそれは広大で美しい庭園。
彫刻家、建築家のベルナルド・ブロンタランティーによるもの。
画像引用 Wikipedia ボーボリ庭園
イタリア式庭園。
エレオノーラはどれだけ愛されていたのでしょう。
このコジモ1世、トスカーナ大公の時代はルネサンスがもう一度開いたかのように芸術やフィレンツェも栄えます。
今日の街並みはこの時に作られました。
画像引用元 Wikipedia フィレンツェ歴史地区
衣装づくりの工房
エレオノーラは豪華な衣装や宝石が好き。
ドレスを一枚縫い上げるに何日ぐらいかかるものなのでしょう?
資料によると、肖像画のような絹織物の衣装は、一日に4センチほど、一年で60メートルを織ることができたそうですが、(ア)
極めて高度な技術のため大変な労力を必要とし、伝統的に男性の仕事。
ミシンもないし、刺繍したり宝石を縫い付けたりしたらすごくかかりそうですね。
エレオノーラは宮殿内に小さな織物工房を作らせて専属の女性織工、フランチェスカ・ディ・ドナードを住み込みで働かせたそう。(イ)
お針子さんが10人いたとのもうなづけます。
なるほど、このことは、源氏物語に同じように宮殿内に自分の染色工房を作らせた紫の上を思い出されました。
そのような拘りはメディチ家として当たり前で、今をときめく大公妃として相応しい奥方だったと思います。
エレオノーラの子どもたち
母としてのエレオノーラ
しかし、輝きが強ければその暗闇も強く、1562年、四番目の19歳のジョヴァンニと7番目の16歳のガルツィアが相次いで亡くなりました。
言い伝えによれば、喧嘩の末ジョヴァンニがガルツィアを殺してしまいコジモが「誤って自分で剣を刺してしまった」と公表したことになっています。
後々メディチ家は、ふたりはマラリアで亡くなったと主張しました。
エレオノーラは息子たちの死のあと取り乱し、結核を悪化させて数週間後に40歳で亡くなりました。
長女マリアも美しく聡明な女性でしたが17歳で亡くなったり次女イザベッラ(3番目)も母より先に亡くなります。
三女ルクレツィア(5番目)は16歳で失い、お子さんには悲しいことが続きました。
ブロンズィーノの絵画に残されているお二人。
*長女マリア
*三女ルクレチア
妻としてのエレオノーラ
コジモはかなり性格にムラがある人で、急に癇癪をおこしたり気分屋ゆえに周囲はとても大変だったようですが、(女傑で有名なミラノ、カテリーナ・スフォルツアのお孫さんなので、うなづけます)
エレオノーラだけにはずっと愛情を示していたそうで、彼女の死に大打撃を受けて、その後の人生はとても荒れて最晩年は半身不随となってしまいます。
いずれにしても、エレオノーラあってこそ、いろいろあったメディチ家でもコジモはフィレンツェの景観等、トスカーナ大公としてメディチ家の再興をなし得たのだと思います。
最後に
肖像画からわかること
女性の美しさばかりがエピソードになりがちな中世において、名君を支える頼もしい女性がいたというのは喜ばしいことです。
ふと見かけた肖像画からこのようにたくましい女性を発見できてとても嬉しい。
真珠の美しさは女性を引き立てます。その逆もしかり。
力のある女性がたおやかにジュエリーや真珠を着けて颯爽と時代をリードして行く姿はいつの時代も変わらず、魅力的に感じます。
先程の、カテリーナ・スフォルツアもイザベラ・デステもそんな逞しい女性たちです。
現代も英国の元首相のサッチャー氏の一連真珠のネックレス、ケネディ元大統領夫人のジャクリーヌさんの3連真珠のネックレス等も印象的です。
エレオノーラの愛した真珠の一部は彼女と共に一緒に永遠の眠りについています。
完
●パールでたどる世界史:エレオノーラ①
●パールでたどる世界史:エレオノーラ②
●パールでたどる世界史:エレオノーラ③
参考文献
(ア)(イ)イタリア美術叢書Ⅲ、憧憬のアルストリア 太田智子著
画像引用元
(ア)旅行コンシェルジュ現役添乗員、小春日和様 https://trip-s.world/pitti-palace